湖(うみ)と西の地勢

土地が持つ物語を読み解き、未来の資産を築く。滋賀の歴史と風土に学ぶ、住まいと土地の視点。

ハザードマップの色が語る物語:近江八幡の水郷と干拓の歴史から災害リスクを読む

水郷めぐりの小舟から見える、穏やかな葦原と白壁の土蔵。近江八幡の象徴とも言えるこの風景の中で暮らすことを夢見る人も少なくないはずです。
しかし、いざ土地探しでハザードマップを開くと、その美しい水辺の多くが、はっきりとした色で塗り分けられている現実に直面します。

この色の背景には、単なる危険箇所という言葉では片付けられない、この街が水と共に歩んできた歴史そのものが刻まれています。
ここでは、その土地の来歴を一つずつ紐解きながら、近江八幡で安全な土地を見極めるための視点を整理します。

この記事のポイント
  • 近江八幡の水害リスクは「西の湖の干拓史」と「日野川の治水史」という土地の来歴と深く結びついている。
  • 干拓地エリア特有の「軟弱地盤」と「浸水リスク」のセットに対し、地盤改良や高基礎などの対策が必要になる。
  • 行政が誘導する「駅南」の安全性と対策を要する「水辺」のコストを比較し、冷静な判断材料としての活用が求められる。

葦原が広がる西の湖の風景。背景には山々が見え、穏やかな水面が広がっている。

出典: Lake Nishi by Alpsdake, licensed under CC BY-SA 4.0

地形に刻まれた水の記憶

ハザードマップの色を読み解く前に、近江八幡の土地が持つ二つの大きな水の歴史を理解しておく必要があります。
それが現在の水害リスクの背景になっています。

琵琶湖最大の「内湖」だった西の湖

現在の水郷地帯、そして安土町の一部に広がる広大な低平地。
ここはかつて、琵琶湖と水路でつながった「西の湖」という、琵琶湖最大の付属湖(内湖)でした。

戦後の食糧難を背景に、この広大な水域の多くは干拓され、水田地帯へと姿を変えました。滋賀県の資料 ↗によれば、かつて琵琶湖周辺には40以上の内湖が存在していましたが、その多くが干拓により消失しています。この「元は湖の底だった」という土地の来歴こそが、現在の島町や円山町といったエリアが標高の低い平坦地であり、地盤が水分を多く含んでいる根本的な理由です。

草津の内湖干拓がほぼ全面的に農地化されたのに対し、近江八幡では一部が「水郷」として保全されたのは興味深い点です。
この判断が、現代の私たちに唯一無二の文化的景観を残してくれました。とはいえ、それは同時に、大雨で琵琶湖の水位が上がった際に水が逆流しやすく、また一度溜まった水がなかなか引かない「浸水継続時間」というリスクを抱えることにも繋がっているのです。

景観の裏側にある日野川の治水史

もう一つの水の記憶が、市の南部を流れる日野川です。
鈴鹿山脈を源流とするこの川は、古くから氾濫を繰り返す「暴れ川」として知られてきました。

彦根の犬上川や芹川が、城下町を守るという明確な意図で制御されたのとは少し異なり、広大な平野を流れる日野川の治水は、よりスケールが大きく、困難な事業でした。
県の浸水想定区域図 ↗を見ると、現代の強固な堤防が万が一決壊した場合、そのエネルギーは広範囲に及び、単なる床下浸水では済まない被害をもたらす可能性が示されています。

三つの視点で読む近江八幡のハザードマップ

これらの土地の記憶を踏まえた上で、具体的なハザードマップを読み解いていきましょう。

洪水リスク 西の湖と日野川がもたらす浸水

これは、大雨によって琵琶湖や河川から水が溢れ出す「外水氾濫」のリスクです。

ハザードマップ上で特に色が濃く、浸水深が深くなっているのが、やはり西の湖の干拓地にあたる島町や円山町、そして安土町の一部です。
元が湖だったという地形的な要因から、最大で3.0m〜5.0m(建物の2階に達するレベル)の浸水が想定されています。

日野川沿いでは、浸水深を示す色と同時に、「家屋倒壊等氾濫想定区域」の有無を確認することが極めて重要です。
水害ハザードマップ ↗上で赤色の斜線などで示されるこのエリアは、氾濫流の物理的な力で家が倒壊・流出する危険があることを意味します。浸水の深さ以上に、生命に直結する危険性を示しているため、土地選びの際には最優先で確認すべき情報です。

西の湖に隣接する島町周辺。元が内湖であった歴史から、広範囲で深い浸水が想定されています。

内水リスク 八幡堀と市街地の課題

川から離れた市街地にもリスクは潜んでいます。
短時間の集中豪雨で排水が追いつかずに浸水するのが「内水氾濫」です。

近江八幡のシンボルである八幡堀は、美しい観光地であると同時に、豊臣秀次が築いた城下町の「水運の動脈」であり、現代においては「都市排水路」としての重要な役割を担っています。
想定を超える豪雨の際には、この堀から水が溢れ、周辺の旧市街地が浸水する可能性が指摘されています。

また、JR駅南側に広がる新市街地も、急速な都市化で地面がアスファルトで覆われた結果、雨水が浸透しにくくなっています。
ゲリラ豪雨の際には、このエリアでも道路冠水や床下浸水のリスクはゼロではありません。

八幡堀周辺の旧市街地。歴史的景観の裏側で、都市型水害である内水氾濫のリスクを考慮する必要があります。

土砂災害リスク 八幡山山麓のもう一つの顔

旧市街地に隣接する八幡山。
この山麓部では、洪水とは質の異なる「土砂災害」のリスクを考慮する必要があります。

特に、急な斜面に隣接する土地を検討する際は、その場所が「土砂災害特別警戒区域(レッドゾーン)」に指定されていないか、県や市の土砂災害危険箇所位置図 ↗で確認が必要です。
もし指定されている場合、建物の構造に厳しい制限(外壁を鉄筋コンクリート造にするなど)がかかり、建築コストが大幅に増加する可能性があります。

八幡山山麓。旧市街地に隣接するこのエリアでは、土砂災害のリスクも視野に入れる必要があります。

干拓地の地盤と、水に備える建築

近江八幡、特に西の湖周辺や干拓地エリアでの建築を考える際、一般論としての「水害対策」だけでは不十分な場合があります。
元が湖底であったこの土地は、水分を多く含んだ軟弱地盤であることが多いためです。

安易に「盛り土をして高くすれば安心」と考えがちですが、地盤が弱い場所で重い土を盛ると、その重みで不同沈下を引き起こすリスクがあります。
そのため、このエリアでは基礎を高くするだけでなく、地盤改良や杭工事といった「足元」への投資が、他の地域以上に重要になります。

また、浸水時の排水スピードが遅いというこの土地特有の性質を考慮すれば、室外機や給湯器の設置位置をかさ上げするといった、より実践的なディテールへの配慮も欠かせません。
美しい水郷の風景を手に入れる対価として、こうした見えない部分へのコストを建築計画に組み込んでおく必要があります。

行政の「意思」を読む立地適正化計画

個人の対策だけでなく、街全体の動向にも目を向けてみましょう。
市の立地適正化計画 ↗を見ると、行政が描く安全のビジョンが浮かび上がってきます。

この計画では、JR近江八幡駅周辺や旧市街地の一部が「居住誘導区域」に設定されていますが、ハザードマップのリスクが高いエリアとは明確な線引きがなされています。
つまり市は、水害リスクの比較的低いエリアへ、人口や都市機能を緩やかに集約させようとしているのです。

これは、「どこに住んでも行政が守る」という一律のサービスから、「安全な場所へ住み替える」ことを促す方針への転換とも読み取れます。
駅南側の新市街地が選ばれる背景には、利便性だけでなく、こうした行政による長期的なリスクヘッジの意思も働いていると見るべきでしょう。

商人の帳簿、現代の地図

かつての近江商人は、天秤棒一本で他国へ渡る際、リスクを恐れるのではなく、それを詳細に調べ上げ、帳簿で管理することで利益に変えたといいます。
私たちがハザードマップを開く行為も、それに似ています。

地図上の色は、ただの危険信号ではありません。この土地が水とどう折り合いをつけてきたかという、膨大な「取引記録」のようなものです。その記録を冷静に読み解き、必要なコスト(対策)を支払ってでもその風景と共に生きるか、あるいは安全という利益を優先して場所を変えるか。
その記録を読み解き、必要な備えをした上で眺める水郷の景色は、何も知らずに見るそれよりも、少しだけ深く、鮮やかに映る気がします。

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※ハザードマップ情報に関する注記:この記事で解説している内容は、執筆時点の公表資料に基づく一般的な傾向や可能性を述べたものです。ハザードマップや警戒区域の指定、建築に関する規制は、最新の知見に基づき更新されることがあります。
土地のご契約や建築計画に際しては、必ず近江八幡市の公式サイトで最新のハザードマップをご確認いただくとともに、防災危機管理課などの担当窓口や、建築士・地盤調査会社といった専門家にご相談の上、ご自身の責任において最終的な判断をお願いいたします。

(参照:近江八幡市 水害ハザードマップ滋賀県 近江八幡市土砂災害危険箇所位置図国土交通省 ハザードマップポータルサイト滋賀県 西の湖滋賀県 日野川の浸水想定区域図近江八幡市 都市計画マスタープラン・立地適正化計画 等)